「米農家の時給は10円」―この衝撃的な数字は、しばしば日本の農業が直面する厳しい現実を象徴するものとして語られます。しかし、この数字は確定申告における家事労働の過大申告や自家消費の調整といった「マジック」によって作り出されたものではないか、という疑問の声も聞かれます。果たして真相はどうなのでしょうか?
稲田で実った稲穂を確認する経験豊富な米農家。
「時給10円」という数字が注目を集めたのは、農林水産省が公表している「農業経営統計調査(営農類型別経営統計)」の2021年および2022年のデータがきっかけです。この調査によると、米を主とする農家(稲作経営)1経営体あたりの平均農業所得(補助金などを除いた、収入から経費を差し引いた額)が年間わずか1万円程度でした。
一方で、同調査における米農家の平均労働時間は年間約1000時間とされています。この年間所得1万円を年間労働時間1000時間で割ると、「時給10円」という計算結果になります。2023年の同調査に基づく試算では、全農家平均で時給97円、主業経営体(農業所得が主)では時給892円と若干改善していますが、依然として低い水準であることに変わりはありません。
重要なのは、この数字が個々の農家の確定申告書から直接導かれたものではなく、統計調査に基づくマクロな平均値から試算されたものであるという点です。
収穫期を迎え、黄金色に輝く田んぼと作業するコンバイン。
農業で得た所得は「事業所得」として、原則として確定申告が必要です(年間所得48万円超など)。所得は以下の計算式で求められます。
農業所得 = 総収入金額 - 必要経費
ここで問題となるのが、収入や経費の計上方法です。
農家が生産した農産物を自分で消費した場合(自家消費)、それは収入として計上しなければなりません。例えば、収穫した米を自宅で食べる場合、その米の価値(市場販売価格相当額から出荷経費を除いた「裸値」)を計算し、収入に含める必要があります。彦根市のQ&A資料などでも、この点が明記されています。したがって、「自家消費の数字を自由に調整する」ことは原則としてできません。正確な価値評価と申告が求められます。
家族が農業を手伝う場合(家事労働)、その労働に対して直接給与を支払っていなくても、農業経営に必要な労働力として、関連する経費を計上できる場合があります。しかし、これも実際にかかった経費に基づいて計算する必要があります。例えば、家族に支払った給与(青色事業専従者給与など、一定の要件あり)や、作業に必要な物品の購入費などが該当します。
国税庁の「家内労働者等の必要経費の特例」では、実際にかかった経費が55万円未満の場合でも、最大55万円を経費として認める制度がありますが、これも実際の経費が基礎となります。「家事労働時間を過大に申告して経費を水増しする」ことは、虚偽申告であり、税法違反となります。特に、詳細な帳簿付けが義務付けられる青色申告を選択している場合は、労働時間や経費の根拠を明確に示す必要があります。
上記のルールからわかるように、確定申告において家事労働や自家消費の数字を意図的に操作し、所得を大幅に低く見せかけることは困難であり、違法行為です。税務署は申告内容を審査しており、不審な点があれば調査の対象となります。「時給10円」という数字は、このような「マジック」によって作り出されたものではなく、統計上の平均値が示す厳しい現実と捉えるべきです。
「国税が米農家の申告には目をつぶっている」という見方について、これを裏付ける具体的な情報はありません。国税庁は、他の事業者と同様に、農業所得についても適正な申告と納税を求めています。
したがって、国税庁が特定の業種に対して意図的に甘い対応をしているとは考えにくいです。農業経営の実態を正確に反映した申告が、すべての農家に求められています。
「時給10円(あるいは97円)」という数字が示す低所得の背景には、確定申告の操作ではなく、以下のような複合的な要因が存在します。このレーダーチャートは、米農家の収益性に影響を与える主要な要因とその相対的な影響度(筆者の見解に基づく評価)を示しています。
このチャートが示すように、低い米価、高騰する生産コスト、長い労働時間、後継者不足などが複合的に作用し、米農家の収益性を圧迫しています。特に小規模な経営体においては、これらの影響がより顕著に現れる傾向があります。
以下のマインドマップは、米農家の所得計算(確定申告の観点)と、その所得に影響を与える経営上の要因を視覚的に整理したものです。収入の部、経費の部、そしてそれらに影響する外部・内部要因の関係性を示しています。
このマップからもわかるように、農家の手取り所得は、単に申告上の計算だけでなく、市場の動向、コスト、労働力、経営規模、そして国の政策といった多様な要素によって複雑に決定されています。
農業所得の確定申告における重要なポイントを以下の表にまとめました。特に自家消費と家事関連費の扱いは、誤解が生じやすい部分です。
項目 | 概要 | 確定申告上の注意点 |
---|---|---|
総収入金額 | 農産物の販売収入、補助金、自家消費分など | 自家消費分(家事消費・事業消費)は、収穫時の価額で収入に計上する必要があります。 |
必要経費 | 農業経営に直接要した費用(肥料代、農薬代、種苗代、機械の減価償却費、修繕費、雇用労賃、地代、租税公課など) | 家事と事業の両方に関連する費用(家事関連費:例 光熱費、通信費、車両費)は、事業で使用した割合に応じて按分(家事按分)して計上します。 |
自家消費(家事消費) | 生産した農産物を自家用に消費すること | 消費した時点ではなく、収穫した時点で、その農産物の通常販売価額(裸値)を収入として計上します。 |
家事労働(家族労働) | 家族が農業経営に従事すること | 生計を一にする配偶者や親族への給与は原則経費になりませんが、青色申告で一定の要件を満たせば「青色事業専従者給与」として経費計上可能です。白色申告でも「事業専従者控除」があります。それ以外の場合、直接的な労働対価は経費になりませんが、労働に関連して発生した実費(交通費、作業着代など)は経費になる可能性があります。 |
棚卸し | 年末時点での在庫(農産物、肥料、農薬など)の評価 | 期末の在庫金額を計算し、売上原価の計算に反映させる必要があります。 |
消費税 | 課税売上高が1,000万円を超えると課税事業者となる | インボイス制度導入により、免税事業者も対応が必要になる場合があります。 |
以下の動画では、全国各地で行われたデモの様子や、農家の方々が直面している経済的な困難、そして所得保障を求める声などが報じられています。「時給10円」という数字が単なる統計上の計算ではなく、多くの農家にとって切実な問題であることを示唆しています。
出典: ABEMA Prime #アベプラ【公式】
動画で語られるように、資材価格の高騰が続く一方で、米価が十分に上昇しない状況が、多くの米農家の経営を圧迫しています。政府の備蓄米放出などの対策も行われていますが、根本的な所得向上には繋がっていないという指摘もあります。これは、確定申告の「マジック」とは無関係な、構造的な問題です。
水田で田植え作業を行う農家。日本の食を支える重要な労働です。